感じてしまったことを言葉にするために
読書。
そして、私に引っかかったのは
高橋源一郎の文章。
それは、
「他人からみれば滑稽なほどの自分だけの「読み」
(引っ掛かり方といっていいかも知れない。)
を起点として、(ヒトは)この世界の外側へ旅立とうとする」
などどいう内容だった。
どうしてそんな言葉を求めていたかというと
私の周りの女性たちが
あまりに、孤独なまでに、古いものへ、古代へ
傾倒しつつ、それを持て余しているように感じるからなのだ。
この国において、他人からみれば滑稽なほどの
こだわり方、物の見方を持つことは
実はとても孤独なことだ。
例えば色にしろ、織りにしろ、
消費されていく
(何かのため、自己表現をふくむ差異化ののため
にそれらが使われていく)
ことが、当たり前の世界において
じっと穴を見つめるように
色そのものや、織りの技術そのものに何かを聴くがごとく
耳を傾けているような人間は、おいてけぼりである。
目の前に置かれた技術なり言葉なり、文章でも何でもいい
それを、
消費し、すり減らしていくとき、
世界はただこの
太陽に照らされた、この世界でしかないけれど
自分がどうしようもなくひっかかった
そのモノから逃げずに
そのモノの語りかけにものぐさにならず
寄り添って生きるとき
そこを起点として私たちも
この世界の外側へ旅立つ事が出来るだろう。
そしてそれは
色や織りや、組みそのものが
私たちという透明な器を通して
遥か彼方を語り始めるその時なのだ。
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コメント
涙でました。
>じっと穴を見つめるように
>色そのものや、織りの技術そのものに何かを聴くがごとく
>耳を傾けているような人間は、おいてけぼりである。
おいてけぼりな気持ちよくわかる。つねにそうですよ〜
>色や織りや、組みそのものが
>私たちという透明な器を通して
>遥か彼方を語り始めるその時なのだ。
言葉では表せない、物が語る力ってことですよね。
格好良すぎますよ〜!!
この世界の外側って一体どんなところでしょうね。
受け入れがたい、とんでもない世界だろうけど
恐いような、楽しみのような・・・
そんな世界にたどり着いた時、自分らしく生きられるような
人間になっておかなくてはいけませんね。